日々是好日

円通寺住職が日々の生活の中での様々な思いを綴っています。

老人の一人言

 「昔はねぇ、畑をうなう(耕す)にも四角いものは四角くうなったんですがね、やがて角がとれて丸くなり、今では丸も小さくなり雑草のはえる分を残してやるようになってしまったよ。父さん?父さんも務めだったし、定年後は私とやっても力は出ないし、なにしろ同じように年をとり80才をすぎて来ましたからねぇ。子供の力もあてにならないし、ふだんたべるだけでいいことにしたの。」
 家を守る老夫婦、年々老いて来ている。

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  1. 2007/11/03(土) 22:44:59|
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名月や池をめぐりて夜もすがら

 お月様のあまりの美しさにみとれて一晩中過ごしてしまった。作者はお月様に感動したんでしょうね。国語で学んだ時の担任の解釈だった。当時はなるほどなるほどと感心してこの句を鑑賞した記憶がある。
 ところが、現在はかなり異なって味わっている。
 それは作者が仏教にも深く関心を寄せていたことに由来している。
 開眼の句といわれる「古池やかわずとびこむ水の音」は、作者が仏教という大きな教えの中に帰依を志した句なのだ、と何かの本で読んでなるほどと納得してしまったのだ。古池は仏教の教え、蛙は作者、水の音の後に響く沈黙の音。この音を昔の人は聞くことが出来たからこそ俳聖芭蕉
が誕生したのではないかと思える。
 こうして鑑賞すると名月は仏教の教え、池に映る月は作者、こう考えると月の美しさは見えず、風に波をたてゆらぐ月影、つまり作者の心は何らかの悩みの中でゆらぎ、一晩中過ごしてしまったとみるべきものではなかろうかと・・・・・・
 沈黙が人間の根底に生きている時の言葉は美しく、悩みの世界をも浄化して私達を楽しませてくれるものなのだ。

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  1. 2007/11/03(土) 22:13:04|
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顔 二題

顔 二題

その1.彼岸参りに来た人の話
「私、近所の人の葬儀に行って来たんだけど、今までにあんな美しい死に顔見たことない。すばらしい死に顔を見せてもらいました。私も死ぬ時はあんな顔で死にたいと思っちゃった。終わって葬儀の帰り道、近所の人と話したんだけど、私と同じように思ったらしいの。ああいう死に方ができるのはやはり普段の生き方が大事、いいかげんに生きていて死ぬ時だけ美しくなんて出来っこないよね。96才までどんな風に生きて来たんでしょうね。きっと素敵な生き方だったんでしょう。死んでまで私たちに学ぶことを教えてくれるおばあさんに合掌です。」

その2.癌で逝った人
 骨に黒ずんだ皮膚がペタッとはりつき、ミイラのように体がすべてを使い果し生ききった姿・・・今日の医学の進歩の象徴のような死に顔。一晩で急変、医者は駆けつけ施主の一日でも命をながらえて欲しいという希望があれば手術をし、それに応えるという。施主は言ったという「もういい苦しませたくない」と。居ならぶ親戚の者も、施主の意向に皆うなずいたという。
 うなずきに合掌したのは、死者なのかも知れない。あなたはどんな顔を死に顔として選択したいか。明日は我が身なのだ。 合掌

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  1. 2007/10/27(土) 23:36:04|
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「叱言(こごと)」

 あだし野の念仏寺に参った時
「子ども叱るな来た路じゃ。年寄り笑うな行く路じゃ」
という標語がかかっていた。なるほどねえ納得納得とにこにこしながら覚えて来たものである。
 子ども叱るなという裏には自分が子どもであったことを忘れるな、があり、お年寄りを見たら何年かさきの自分がそこにいるのである。つまり他人のこととしてこの標語は見るのでなくすべてが“私”という一人称で考えてとらえなさいと石仏に語らせているのだ。
 5才の子どもを叱っても これは私の5才の姿 15才の子に叱言を言っても これも私の15才の姿・・・。そう思えば叱り方も自ずとかわるはず。立場上見逃すわけにはいかないこともあるかも知れない。が、しかし、である。
この自覚があるかないかで叱言の言い方は違ってくることを近頃よく考えさせられる。
  1. 2007/06/30(土) 22:33:35|
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「行雲流水」

 中国、元の時代 北宋の詩人蘇軾が作文の心得として述べた言として「作文は行雲流水の如し」とある。
 文章を作るには、空行く雲と、流れてとどまらぬ水のように初めから一定の形式や内容があるわけでなく、ただ常に心の行く所に従って作るのであるという。しかも、その後文に「当に行くべきところに行き止まる所に止まる」と言い、自然に一定の所に止まるべきことを言う。
 孔子の「心の欲する所に従えども矩を踰えず」の境に通ずる。
 禅宗では修行僧のことをこの行雲流水の雲と水をとって「雲水」と呼んでいる。居場所を決めず一箇所に止まることなくいろいろな師を求めて修行を重ねていくからである。
 大空に浮かぶ雲止まることなく流れる水どこまでも自由で束縛させない文章のように、修行僧も又自由に本来の仏法を求めてやまない姿をあらわす、「雲水」という言葉は今日も生きている。
  1. 2007/06/30(土) 22:19:05|
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