鎌倉時代、大乗戒、菩薩戒等を授けてもらう寺院の証明を持参して中国仏教修行への旅立ちをするのが当時慣行となっていました。
道元は「そうした証明は無くてもしっかり学んで来ているので大丈夫」として渡宗したのです。案の定証明を持っていないというので、下船許可をもらうのに二ヶ月余も費やしてしまったのです。許可を待っている折に阿育王山の典座(「てんぞ」と言い食事を司る僧侶)が尋ね
て来ます。「制中(春と秋にある集中修行期間)がまもなく明けるので修行僧に何かおいしい麺を食べさせてやりたい」と日本からのめずらしい食材を探しにきたとのことです。阿育王山から50里余り、当時1里は500m余りだから25kmを半日がかりで尋ねて来たことになります。あれこれと探した結果、求めたものは乾物のしいたけでした(日本でもしいたけが栽培されるようになり輸出品となっていた)。商談がまとまり帰りかけた所を道元につかまります。そうでしょう。下船できずにいらいらあせりの日々だったのでしょうから老僧ならきっと中国仏教の何たるかを語ってもらえるのではないか期待を膨らませるのは無理もなかったことでしょう。
中国の仏教は、どこで学べば、良い指導者は、経論は、弁道は・・・
「夕食の用意も致しますから是非泊まってお話をお聞かせください。」と申し上げた様ですが、「私は阿育王山の典座です。監司に宿泊の許可もいただいておりませんので帰らなくてはなりません。」
「そんなことおっしゃらずにいかがでしょう。見れば失礼ですがお年も召していらっしゃるご様子、典座などはもっと若い者にさせておいてあなたは坐禅修行や経典古人の公案を学ばれたら良いのではないですか。」
若い道元の仏法を求めてはやまない勢いと未だ悟りを得ていない未熟さをありのままぶつけます。
「日本から来たお若いの、そんな理解の仕方では、あなたは仏教や修行のなんたるかもわかりませんよ。いずれ阿育王山におりますので今、問われました如何なるか是文字、如何なる是弁道ということについてお話し合いを致しましょう。」こう言って阿育王山の方へ帰っていってしまったのです。やがて道元は、下船を許され天童山で修行するよう指示され喜び勇んで向かったのです。理に沿わぬものは常に正そうとする姿勢の若き僧はここでも問題を起こすのです。上山順に並ぶ単牌。どうして私が一番下なのかと理を正します。結局いくつか順をあげてもらった様です。こんなこともあって天童山のまわりでは日本からすごい若者が来ていると話題騒然です。
制中を明けた例の阿育王山の典座和尚が下山をすることになり一度、気になっていた道元のもとを訪れ、例の問題がどうなったか尋ねて来てくださったのです。未熟といえ非凡な才能の青年僧に魅力を感じていたのでしょう。早速道元は船中で納得のできなかった本当の文字、本当の修行ということについて改めてたずねます。すると典座は、本当の文字とは「一二三四五(日に触れ耳に聞こえるものすべてが仏道の道しるべとして活きた文字である)」本当の修行とは「偏界って蔵さず(ありとあらゆるものがかくすことなく真理を語っている)」とこたえます。道元はこの時坐禅修行や経典文字による参究と典座とは関係のない別のものと考えていたことの誤りに気づかされたのです。
「如何なるも是文字」。「如何なるも是弁道」。
典座と言う役を命をかけて行ずる事の中に本当に生きた文字があり、修行弁道があるのだと気づき始めていたのです。
前回の「法」の話の中で法学者の立場にいた道元が仏教者の立場に立つきっかけになった話
として道元禅の基本として今に生きる典座教訓のこぼれ話でした。
- 2007/06/30(土) 21:27:20|
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