悪性腫瘍でこの世を去った井村和清さんが、無くなる20日前に遺した詩
「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」を読む
あたりまえ
こんなすばらしいことを みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声が出る
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだと笑ってすます
食事が食べられる
夜になるとちゃんと眠れ
そして又朝がくる
空気を胸いっぱいにすえる、笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんな決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ
法要がすんで斎食の席でこの詩が話題になる。
「方丈さんのおっしゃるとおりだと思いました。失くして初めて歩けることのありがたさ
幸せをしみじみ思いました。」と施主の奥様。
私たちは、日常判断の基準を自分においている。自分の目を通したものこそ真実として疑うことを知らない。しかし、この真実も時として変わるものである。事故にあう、病に倒れる、年齢が進む、一寸したまわりの条件がかわるだけで、全く異なったものへと変わってしまうのである。
私たちは、食事の時に「いただきます」といって箸をとる。
宗祖道元禅師は、食事は使用人の作るものと考えていた。中国、寧波の港で下船許可を待っている時、一人の老僧に出会う。彼は夏安居が終わるというので修行僧に祝麺を食べさせようというので、日本のしいたけを求めにやってきた。まじめに問う禅師にこの老僧は中国の禅についてきっちりと
答えてくれた。
「どうやらあなたは、弁道の何たるか、文字の何たるかを知らないようだ」と。
修行僧道元はびっくり。何しろ食事を作るのは使用人の仕事と考えていたところへ老僧は修行最後の仕事として、わが命としてそれをつとめ上げようとする姿勢に「ハッ」とさせられたようである。
食事は単に体を養うための修行をたすける為のものととらえていたが、どうやらその向う側に仏道の何たるかがあるようだと気付いた瞬間だったと聞いた。
井村さんといい道元さんといい気付くきっかけの存在があったのである。しかもその存在は、水は高い所より低い所に向って流れるというあたりまえのことだったのである。
- 2008/05/31(土) 06:51:05|
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さすがの一文です。
一語一語,納得しながら読ませていただきました。
御老師がまえにお書きになった、盤珪の「不生にして調ず」なのでしょうか?
このブログが楽しみなので、数多く更新願いたいのですが・・・・
- 2008/06/05(木) 17:01:52 |
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いつもありがとうございます。
ブログを楽しみにしていただけることをうれしく思います。
なるべく御期待に添えるよう更新するつもりです。
今後ともよろしくお願いします。
- 2008/06/07(土) 20:10:19 |
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