同じものを見たのに全く相反した応えがかえってくることがある。
嫁と姑の言い分となると如実だ。
対応で訪れる者を納得させた坊さんで有名なのは盤珪(ばんけい)さんだ。
姑さんが嫁の悪口を言いにやって来れば、
「姑も昔は嫁にて候」と、
よく考えてみれば、女が古くなって姑と書く。「ばあさんや、あんたも嫁の時代があったろう。
今の嫁さんの姿はあんたの昔の姿じゃあないのか、あんたの歩いてきた道じゃあないのか」と
「姑も昔は嫁にて候」は言っている。
嫁さんが翌日やってきて姑さんをこきおろす。曰く、「嫁が姑になるにて候」
あなたも間違いなく姑になる日が来るんじゃよ。あなたの明日の姿、行く道じゃよのう」といったという。
来た道、行く道、昨日の私、明日の私とうけとめて見れば一生の中の風景、自分の現在地のみでの判断は、自他を明確に離して見つめている相対の世界での生き方である。宗教の世界は第一人称単数の世界だと言った人が居たが、まさにその目で見つめたらどうだろう。
他人のどんな姿からも私のことと心を運んで行き学んでいく行き方が大切である。
- 2008/04/19(土) 18:52:20|
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ある禅師のところへ話を聞きに行った雲水、茶碗いっぱいにお茶が注がれているのに、更にお茶を注ごうとするのを見た雲水はとっさに「禅師様、お茶がこぼれます」と。
すると、禅師は承知した顔をして「その茶を飲みほせ」と一喝したと言う。
つまり、さっきからおまえさんの様子を見ていれば・・・との老婆心からの行為だったのだ。
飲みほさなければ新しいお茶が入らないように、お前さんの心の中にいつの間にかためこんできた古い自分見方、考え方が詰まっているからいくら話をしてもあふれ出して少しも入っていかない「心をからにして全身耳にして聞け」との一喝なのだ。
今、娘の子どもが入園式にさわやかな顔をして出かけていった。純粋無垢 心を躍らせての入園である。
園長先生、担任の先生の話、年長さんの新入生を迎える出し物、一つ一つが新鮮で吸い取り紙のように受け入れてくることであろう。この雲水の様にお茶を楽しむことを忘れることなく、今日入園式を迎える喜びを大切に幼稚園生活を楽しんでもらいたい。
テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記
- 2008/04/13(日) 10:17:32|
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