叔母の七回忌(休広忌)法要の導師を務めた。
谷峨円通寺25世の長女である。この縁で導師を依頼された叔母は、4男3女を育て、寺庭婦人をして壇信徒から
敬愛され、したわれた人であった。
お正月は16日の藪入り後、盆はあけてから寺の忙しさが明けると決って顔を出し、両親の墓参、仲人さんと友達
の家を訪れた。帰宅すると達筆なこころあたたまる礼状(はがき)が決ったように届けられた。
以前この欄で書いたお盆のはかの雑草の話の中に出て来た叔母である。斎食をいただきながら、この話がでた。心
にも思わなかった心を檀徒の皆さんの中に育ててしまったとなげく姿は、正に寺庭婦人の鑑であった。
峨山黝靄照二明月ノ 九十鈴翁輥綉毬と香語を結んで叔母をしのんだ。
谷ケの山は叔母が遊んだ頃の山と異なり、青黒くなる程にしげって月が照し、しずけさにつつまれているよ。
九十一歳でなくなったすずおばは、今頃昔をなつかしんで手まりをついて楽しんでいることでしょう、
と谷ケの大好きだった叔母休広忌にささげた。
- 2010/07/09(金) 21:29:05|
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筍をかついで山から下ってくると、八十をいくつか過ぎた老人がのんびりと墓の草を一本一本ぬいている。「お墓の掃除ですか。」と声をかけると、「どうしようもねえや、することがないから墓の掃除に来た。」とのこと。
翌日、この老人の奥さんがやって来る。
「おっさんのいう通りだよ。何もすることがないというのが、極楽だなんてとんでもない。することがないくらいつらいことはないよ。息子たちに代を譲ったとき、台所のあとかたづけだけはやらせてくれって、嫁にいってやらせてもらっているんだけど、それがなかったら・・・ねぇ、することがないって、ほんとうにつらいことですよ。」とこぼす。
数日前こんな話をしたのを思いだした。
「極楽ってどんな所でしょうか。仕事をしないですむ。食べたい物が何でも食べられる。寝たいだけ寝ていられる。掃
除しないで済む。何の苦しみもない。お金に困らない。欲しいものが何でも手に入る。
ある善良のご夫婦が生前に善果を積んでおりましたので、死後の極楽に往生することが出来たそうです。ところが、前
述のように何もすることがないので、毎日ご主人は坐禅を、奥様はそばでにこにこながめていたそうです。ある日、そ
の奥様がご主人にたずねたそうです。
『隣の国に地獄という所があるそうですが、どんな所でしょうか。』
しばらくして、ご主人はこう答えたそうです。
『まあ、ここより退屈しない国でしょうよ。』
幸い私達は苦楽相半ばする国の住人なんですよね。」
吉川英治はこういいました。
「晴れの日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。楽しみある所楽しみ、楽しみなき所楽しむ。」と。
副住職はいう。
「何にもすることがないと、お墓の掃除なんでしょうね。」
人間幸せ探しの旅は生涯続くんですね。
- 2010/05/10(月) 20:58:54|
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納経之證
般若心経560巻
円通寺殿
太祖常済大師御真前に奉納したことを證します
平成22年3月6日
曹洞宗 大本山総持寺
23名程で、写経会で写経した560巻の般若心経をもって本山までバスで出かけた。
仏道をならうというは自己をならうなり の教えの通り写経をすることは正に自己をならう
絶好の機会と一心に取り組んだ自分の足跡を本山に留めることの出来る幸せを味わってきた。
味わいといえば、昼食に精進料理をいただいた。
「飯におうては飯を契し、茶におうては茶を契す」
と示された瑩山禅師の御開山になる総持寺でいただいた。
弟子の邦元はいう。円通寺と聞いて典座老師が一品多く膳に添えてくださったようだと。
数年前ここ本山の典座寮で包丁をもっていた弟子は典座老師の心を感じていた。
食後、やっぱりあいさつに行ってこようと出かけていった。
昼食を済ませた一行は横浜中華街にて小休止、一日を楽しんで帰宅となった。
- 2010/03/27(土) 22:42:03|
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彼岸という語は、梵語パーラミタから由来する。
漢訳して 波羅蜜到彼岸 と訳している。
彼岸という意味を考える時次の2通りがあるという。
この世を此岸、あの世を彼岸、つまり生きている世界と死後の世界というわけだ。
この解釈からは、あの世の祖先に供養するお彼岸となる。
もう1つは、現世に生きている者達を対象とする考え方だ。
即ち迷いの世界を此岸、悟りの世界を彼岸という見方である。
生きている私たちが六波羅蜜の教えに従って身心を清浄にする行をするのがお彼岸だというのである。
私達、祖先は年に春秋訪れる昼夜の長さが同じ節分けの日を中心に前後3日 計1週間を
彼岸として自らを省みると共に祖先の供養を行ってきた。
宗門では、お彼岸はご先祖にあらためて感謝のお墓参りをし、心静かに手を合わせ、自らのいのちに感謝
するという仏教徒にとって大事な1週間だと示している。
約一万年前人間は土を掘りそこに栗やドングリなどの実をおき、土をおおう栽培の知恵を得たという。
この土を耕し栽培することを英語で「カルチャー」という。これによって人類は文化を持つことになる。
その為文化という英語も「カルチャー」である。
これまで、人間は動物を捕獲する狩猟、魚や海草、貝などを採る漁労、木の実や植物を採る採集の3方法によっての
生活であった。併し、この種をまくという知恵は生活を豊かにし、文化となり文明として発展をとげるのである。
この種をまくという第一歩は1万年前だ。人類は火を手にし、鉄を用い通信を発明し言葉、文字を作り、野口さんは宇宙で豆まき、人間の夢はこの上ない物質文化を発展させてきた。
一方で新しい病気を生み、精神的異常者が増え、ナイフを振り回し人を殺害する。
自殺者は3万人を越え、孤独死をとげる者はさらに多くなっている。
かつて恐竜たちが大きくなりすぎて亡びていったように、脳だけが大きくなりすぎた人間は
同じ道をたどるのだろうか。
- 2010/03/27(土) 22:21:24|
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月曜日はごみ出し日である。
あるマンションのごみ収集場所に、一匹の黒猫が横たわっていた。見れば一目瞭然、かなり衰弱し目もうつろである。
誰か猫好きの人が住人の中にいるのだろう。帰りがけに目をやると水が横たわっている猫の口元においてあった。
翌日沢山のごみの上に、猫の好きそうな食事と水が盆の上に乗せられ、側におかれていたが、黒猫はつめたくなっていた。
管理人はこれを見て腹を立てた。このマンションは動物を飼うことはご法度なのに、誰かかくして飼っていた人がいたんだ。とんでもないことだ。犯人を探さねばならない。これを聞いた住人の1人。「そうじゃないと思いますよ。かくしてかっていたのなら、わざわざ目にふれるようなことはしないでしょう。きっと、猫が大好きで他所から死に場所を求めて来た猫をあわれに思い、最期の食事を与えてくれたんじゃないんですか。」と。
そうそう、今、円通寺の掲示板には、「垢と浄」と題してこんなことを書いておいた。
一切の煩悩を垢
一切の徳を浄
垢浄を分別するは妄心のなせるわざ、好きになればあばたもえくぼになり、嫌いになれば全てごみの山。
我が心 御し難し 願わくは 管理人さん、ごみと一緒に猫さんをつめこまないで、箱に入れごみ収集の方に手渡して下さることを信じて
人間、心の外に法はないというが、見る角度によって天地の隔たりを生ずるものである。
- 2009/12/08(火) 20:17:04|
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